9月13日

島原ー口之津港(イルカウォッチング)−殉教公園ー(天草切支丹)−松島展望台ー熊本ー羽田


島原
島原の武家屋敷には通りの真ん中に流れる水路は飲料水用に造られている。
城下町として栄えた江戸時代そのままの名残が感じられます。
島原城は寛永元(1624)年、松倉豊後守重政が7年の歳月をかけて築いたものです。五層天守閣を中核に、大小の櫓を要所に配置した、安土桃山期の築城様式を取り入れた壮麗な城でした。

用水路
幅は70cmで周りは石垣で固められています。
周りは石を積み上げた塀で囲まれていますが、
防御としての意図もあったらしい。
柳葉ルイラ草 とても大きなツユクサ


口之津港からのイルカウォッチング



松島展望台から天草諸島を見る


殉教公園


天草島原の乱ガイドさんのお話
 天草、島原の乱

徳川三代将軍家光の時代、島原は飢饉が続き年貢の取り立てが年々厳しくなって
いった。農民への税は天井知らずのようにかさみます。納められない農民には
見せしめの為、水責め、俵責め、火あぶりなど、苛酷を極めました。そうした
圧政に農民は結束して起ちあがります。その頃、島原半島から天草灘を経た
天草群島ではキリシタン大名、小西行長のもとで多くの島民が信者となり
キリスト教の黄金時代を迎えます。しかし、その勢力が次第に大きくなることを
怖れた幕府はキリシタン禁止令を出します。令に背いた者の弾圧が強くなり人々は
マリア像を隠して信仰するようになります。そうした隠れキリシタンの追求が
激しくなり信者は結束を強くしていきます。寛永14年10月25日ついに島原では農民が
天草ではキリシタンが起ちあがります。島原勢2万3千、天草勢1万4千、
計3万7千の勢力が天草四郎時貞を総大将として乱を起こしました。
島原で廃墟となっていた原城に集結します。若冠16歳の少年が戦いの指揮を執った
わけではありません。天草四郎はくじけそうになる人々の心、ばらばらに離れそうに
なる人々の心を強い信仰の力をもって、ひとつにまとめあげました。四郎を頂点に
何物をも怖れぬ3万7千の勢力がありました。人々は食糧、武器をもって原城に
籠城します。が、それはいつか底をつきます。その時を待って家光は、2月27日
12万の兵を送ります。翌28日原城は1日にして落城、3万7千、1人
残らず
ち死にしました。天草四郎が生き延びることを怖れた幕府は、15歳〜16歳の
少年の首をいくつか、人質としてとっていた四郎の母に見せます。母は決して
わが子を指し示すことはしませんだしたが、ある1つの首の前に泣き伏したと
いいます。それをもって「天草四郎時貞斬首」と断定し幕府を震撼させた120日の
乱が終わりました。これが「天草、島原の乱」です。

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